木曜日の回覧板・解
二つ目の湯呑みは、今日も湯気を立てていた。俺が、来る前から。
次の木曜も、回覧板はポストに入っていた。
今度は、濡れていた。朝からの雨に、きちんと。それがかえって、俺の背筋を冷やした。先週のあれは、乾いていた。誰かが、雨の降り出す前に、わざわざ俺のポストへ入れたということだ。選ぶように。
インターホンを押す。「はぁい」と、先週と同じ声。同じ薄手のワンピース。同じ角度の笑み。同じ「旦那、今日は泊まりの出張なの」。——まるで、決まった台本を、何度もなぞっているように。
通された居間も、同じだった。カーテンは引かれ、テーブルには湯呑みが二つ。片方から、湯気。今日は、俺から訊いた。
「あの靴は、誰の?」
彼女の手が、一瞬だけ止まった。それから、ゆっくりと微笑む。その笑みが、先週より少しだけ、深かった。
「気づいてたのね。えらい」
彼女は立ち上がり、廊下の奥の襖を、すっと開けた。薄暗い和室。その壁際に、男物の靴が、きちんと揃えて並んでいた。一足ではなかった。三足、四足——いや、もっと。サイズも、色も、くたびれ方もばらばらの、他人同士の靴が、整然と並んでいる。まるで、コレクションのように。
「みんな、木曜日に来てくれた人たち」
佳奈子さんの声は、優しかった。優しすぎた。
「旦那? 旦那はね、二年前の木曜に、出張に行ったきり。……帰ってこないの。警察にも、言ってない。だって——」
彼女は振り返らずに、靴の列を、愛おしそうに見つめている。
「木曜日は、わたしの日だから」
喉が、からからに渇いていた。思い出す。先週、ここで出された、ほうじ茶。妙に喉が渇いて、半分も飲んでいないのに、あのあとの記憶が、ところどころ、曖昧だ。——二つ目の湯呑み。あれは、"先客"のためじゃない。俺の、ための。
立ち上がろうとした。足に、力が入らない。膝が、笑うように崩れて、俺はソファに沈んだ。視界の端で、佳奈子さんがこちらへ戻ってくる。ワンピースの肩紐を、片方だけ、ゆっくりと落としながら。
「大丈夫。先週は、様子を見ただけ。あなたが"合う"か、確かめてたの」
彼女が、俺の頬に手を添える。熱い手のひらだった。先週、確かに心地よかった、あの手。
「今日は、合格。——だから、ちゃんと最後まで、わたしのものにしてあげる」
遠のく意識の中で、俺は玄関の、あの靴の列を思い出していた。明日には、あの中に、俺の靴が一足、きちんと揃えて並ぶのだろう。
来週の木曜。回覧板は、また誰かのポストに入る。乾いたまま、雨の降り出す前に。
次の、一足のために。