社内の噂 解編
あの夜、残業のオフィスで何があったのか。本当のことを知っているのは、二人だけだ。
営業の西野。社内では「手が早い」「目を合わせたら妊娠する」と噂され、後輩には「女の落とし方を教えてくださいよ」と慕われる、恋愛マスター。そう、通称チャラ男と呼ばれてる、語り手の俺だ。
けれど、それは全部、噂だった。
俺は、二十六歳にして、女性経験ゼロ。入社したての頃、先輩にからかわれて調子を合わせているうちに、噂だけが勝手に膨らんだ。誰にでも気楽に話しかけられたのは、女慣れしているからじゃない。逆だ。女を"そういう目"で見る度胸がないから、ただの同僚として、無邪気に接することしかできなかっただけ。見栄だけが先に歩いて、今さら本当のことなんて、言えなくなっていた。だからあの夜、暗がりの女に手玉に取られながら、慣れた男のふりをするだけで、精一杯だったのだ。
そして、あの女。暗がりで声も出さず、俺を一方的に貪った美女は——経理部の、あの無口な子だった。いつも髪をきっちり結んで、黒縁眼鏡の奥から何も語らない。「色恋とは無縁」と、誰もが信じて疑わない、地味な女。
けれど、それも全部、噂だったらしい。
結んだ髪と黒縁眼鏡は、彼女の擬態だった。その下に隠れていたのは、社内の誰よりも男を知り尽くした、本物の痴女。地味なふりで息を潜め、男たちをじっと観察し、品定めするのが、彼女のひそかな愉しみだった——と、思い知らされたのは、あの夜のことだ。
彼女は、ずっと前から気づいていたらしい。俺の評判が、虚勢だということに。女子社員に囲まれるたびに挙動不審になる俺、目が合うと逸らす俺。あれは、手慣れた男の態度じゃない。むしろ、その正反対。噂といちばん違う、いちばんウブな男。それを暴いて、剥いてやりたくて、彼女はあの夜を待っていたのだろう。残業で二人きりになったのも、暗がりで正体を隠したまま迫ってきたのも、たぶん、全部、彼女の筋書き通りだった。
「噂って、面白いね。あなたも、そうだったんだ」——あの囁きの意味が、今なら分かる。噂では遊び慣れた男、その実、童貞。噂では堅物、その実、痴女。二人とも、世間の評判とは、まるで逆。お互いが"噂の仮面"を被った者同士だと、彼女だけは、最初から見抜いていたのだ。
俺は、今も分からないままだ。あの夜の相手が、毎朝すれ違う、あの無口な経理の子だったなんて——本当は、認めたくないだけかもしれない。そして彼女は、今日もきっちり髪を結んで眼鏡をかけ、何食わぬ顔で電卓を叩いている。ときどき、ふと目が合う。何事もなかったような、涼しい顔で。
——さて。次は、どの噂を、剥いてあげようかしら。
彼女の、そんな心の声が聞こえた気がして、俺は慌てて目を逸らした。
……ところで。あなたの会社の、あの大人しそうな彼女は——本当に、噂のとおりの人だろうか。